優しい心を育むカトリック教育

2017/04/10

合掌

2017年4月10日(月)

 

幼稚園児が手を合わせ,朝の祈りをする。お帰りの祈りをする。夕食時には,「パパ,ご飯の前はお祈りしないとだめだよ」と父親を注意することがあるという。賢明学院の園児たちが「いただきます」のときだけではなく『お祈りしなきゃダメ』と心に刻んだのには,先生がたの姿や,日常の保育生活の中から,心に深く染み入るように学んだのだろう。

 

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高校生も祈りの時には手を合わせ祈る。思春期の若者にとっては少々抵抗のある姿ではないかと心配するが,卒業感謝ミサの派遣の祝福の時,世の光としての派遣の祝福を受ける時,彼らは指を伸ばし,胸の前で手を合わせ,司祭の前に進み出て頭を垂れる。なんと素直な青年に成長したのだろうと,その姿を見るだけで賢明生としての心の陶冶ができたと感動し,生徒一人ひとりに「美」を感じる。先生がたの中には,信者でない先生もいる。信者でない方が信仰に関わる所作や宗教的行為を指導するのは,並大抵のことではないと想像するが,園児・児童・生徒の姿を見ている限り,先生がたが心の陶冶をいかに大切に考えて,接してこられたのかが理解できる。賢明の校訓の素地は,先生がたの心の一致によって培われているのだろう。

 

祈りは,宗教や宗派を超えて一つだと思われる。合わせる添わせるという精神が,手を合わせる所作の根底にあり,互いの役割を担って,別の行動をしていた右手と左手を合わせることで,一つになると考えられる。

 

旧約聖書創世記(1:26)神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。と書かれている。人に治める仕事を命ぜられているのであって,勝手に命を絶つことや,自然を破壊してもよいとは書かれていない。治める為には,相手を思い相手を尊敬し,一つになることが大切である。生きるものすべては姿形こそ違うが,それぞれに様々な役割があり,違った生き方をしている。しかし決して別々のものではなく,皆寸分変わらぬ同じ命を持って生まれて来ている。他者や自然のすべての生き物を大切にする心の陶冶は,手を合わせることから始まるのではないかと考えられる。尊厳な心で生き物が一つになる大切さを,手を合わせることから指導すべきなのではないかと思える。

 

老師曰く,「右手が仏さま、左手が自分、そして両の手のひらをシッカリと合わせる。これは堅実心合掌と言って仏さまといつも一緒という祈りの姿。その手のひらと手のひらのお腹の部分の力を自然に緩めてみる。これが虚心合掌と言って仏さまとともに自然に素直に祈る姿です。そして、合わせた手のひらの間に少し空間を作る。これは未敷蓮華合掌と言って合掌するあなた自身の心に「仏さま」のつぼみが膨らんだことを表している祈りの姿です」

 

『見えないところで 見えないものが 見えないところをささえ 生かし 養い あらしめている』

 

東井義雄(とういよしお)

誕生:1912年4月 9日
帰天:1991年4月18日
1932年(昭和7年)に姫路師範学校を卒業。

以後、但東町内の小学校に勤務、32年『村を育てる学力』で反響を呼ぶ。34年但東町の相田小学校校長に就任。中学校長を経て39年八鹿小学校校長に着任。41年より『培其根』を発行。47年定年退職し、兵庫教育大学大学院、姫路学院短期大学講師などを務める。「平和文化賞」(神戸新聞社)、「教育功労賞」(兵庫県・文部省)、「ペスタロッチ賞」(広島大学)、「正力松太郎賞」(全国青少年教化協議会)などを受賞

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫