優しい心を育むカトリック教育

2019/05/17

儀式に思う

西暦805年に創建され,古来勅願所として知られている寺で,御本尊が天皇のご即位の時のみに御開帳される秘仏の観音様であると伝え聞き,拝観しようと小雨の中を出かけた。次の御開帳の時に,自分の命があるか否かと考えると,何とも言えない時の流れを感じ,少々複雑な思いを胸に,東山へと歩を進めた。この寺は,平安京に都を移した桓武天皇が,天台宗を開いた最澄に建立するよう命じた,天皇家とゆかりの深い寺院だ。最澄自らが刻んだとされる,ご本尊「准胝観音像」は,新しい天皇が即位した際にしか見る事が出来ないそうだから,今回のご開帳は平成への代替わり以来,約30年ぶりとなる。

 

 

「時雨をいとうから傘の 濡れてもみじの長楽寺」と詠われた寺院は,京都の東山の三十六峰にあり,京の東の果てに位置する。このシーズンでも,きっと穴場だろうと思っていたが,山門前には「二時間待ち」との立札がある。長蛇の列を横目に尋ねてみると,御朱印帳に記帳してもらう為に並んでいる人たちの待ち時間だそうだ。「拝観だけなら,左側を登って下さい。」と言われ,左側の石段を登り,秘仏の観音様を拝観した。穴場と想定していたのに当ては外れ,観光客は何処で情報を得ているのか,小雨の中,次々と列は伸びていく。

 

薄明りの御堂の中,人並みの背後からでは,観音様の姿を見据える事は難しかったが,1000年以上続く寺の歴史を感じる事は出来た。収蔵庫も見学出来たので,時宗宗祖一編上人尊像を拝観した。眼光鋭いその像は,道を究めた僧の生きざまを感じさせる力を秘めていた。

 

限りある時間の中で,伝えられ続けるものに,人は何らかの価値を見出し,大切に守り伝え続けられるのだろう。きっと,さまざまな儀式が,その頂点にあるのではないだろうか。人は,大切にしたい事を,また守り続けたい事を,儀式として代々伝えていくのではないだろうか。この五月の初め,どの報道も令和に関する儀式一色だった。儀式に対する批判は簡単だが,これを守り続けていく事の方が,人間としての価値ある行為かもしれないと,毎日のニュースを通して感じた。人間の知恵ではうまく説明できないものを,どのように伝えていくのかという課題に応えるのが,太古の時代から人たちが深く考え,作り出した儀式かもしれない。

 

仏陀の言葉

「過去は追ってはならない,未来は待ってはならない。 

ただ現在の一瞬だけを,強く生きねばならない」

 

「苦悩を乗り越えるための聖なる道。

 正しいものの見方,正しい決意,正しい言葉,正しい行為、

 正しい生活,正しい努力,正しい思念,正しい瞑想である。」

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫