優しい心を育むカトリック教育

2017/12/26

幼稚園のクリスマス  Christmas Version Ⅵ

駐車場へ向かう園児が,二人で聖書の朗読をしている。今日のPAGEANTで,読まれた箇所だ。ヨセフとマリアの宿泊を断る,宿屋の主人の言葉も聞こえてくる。子どもたちは練習の間に,聖書の言葉もその他の人の台詞も,暗記してしまったのだろう。駐車場へ向かうスロープで,二人は楽しそうにセリフを口にしている。練習はもう終わったのにと感じるのは,枯渇した大人の考えなのだろう。子どもたちは覚えた事,やり遂げた事を反復し,自分のものにしていくのだ。聖書の言葉を,この幼い子どもたちは理解は出来ていないだろうが,純粋に言葉として覚えているのだ。成長した時,覚えた聖書の言葉が,人としての生き方を示唆してくれるのではないだろうか。聖書の記述に基づいて忠実に再現され,聖歌と楽器の演奏によって,場面を構成している聖劇はたいしたものだ。きっと先生たちは,話し合いに話し合いを重ね,悩みに悩み,修正し,そして今日を迎えたのだと思う。先生がたの,Christmasを伝えたいと思う心は,間違いなく子どもたちに伝わっていた。

 

聖書に基づいて再現されたChristmasの意味を,聖劇の練習の中で,子どもたちは理解していたのだろう。この幼い子どもたちの脳裏には,待降節の実践を通して,喜びを独り占めしない,喜びをみんなで分かち合う大切さが伝わったと感じる。

 

Hourglass in the dawn time

 

光を手にして,園児たちが入場する場面から,幼稚園のPAGEANTは始まる。

 

この光とは,何を示しているのだろうか。

 

光は,詩編にも書かれている。「あなたのみことばは,私の足のともしび,私の道の光です」(105),「みことばの戸が開くと,光が差し込み,わきまえのない者に悟りを与えます」(130),「光」とは,単に暗さを明るくする光源以上の意味を持っているのだ。そして「光」は,神と人との交わりを表わす概念と言える。その光は,「闇を照らす光」であり,「いのちの光」・「愛の光」・「まことの光」・「天からの光」を意味している。

 

遣わされたイエスは,「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)としてこの世に来られた。そして,「わたしは世の光です。わたしに従う者は,決してやみの中を歩むことがなく,いのちの光を持つのです」と言われた。パウロも,「あなたがたは,以前は暗やみでしたが,今は,主にあって光となりました。 光の子どもらしく歩みなさい」(エペソ5:8)と勧めている。

 

「あなたのみことばは,私の足のともしび,私の道の光です。」(詩編105節)

 

卒業式の最後の教えでは,あなた(賢明学院を巣立つものすべて)は光であると教えている。卒業式では,下記の箇所が朗読され,クリスマスの日に手にした光を授けられ,巣立っていく。在学時には,光として育てられ,そして卒業時には,光として巣立っていくのだ。賢明学院ではこの意味を,Christmasの度に学び直すことになる。

 

【マタイ 51316節】 

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫