優しい心を育むカトリック教育

2018/04/18

良きサマリア人

夏日を経験した三月末と打って変わって,すこし肌寒い四月,この6日に,小学校の入学式が挙行された。校庭の桜は舞い散ってしまったが,リヴィエホールの中の児童たちの姿には,満開の桜の花にも負けない美しさが見られた。

 

59期生として,賢明学院の家族の一員となったピカピカの一年生は,なかなか凛々しい姿を見せてくれた。

手を膝の上に置き,名前が呼ばれると明瞭な返事ができる。一方新入生を迎える上級生たちは,一時間にも及ぶ式の最中,微動だにしない姿で一年生を迎えていた。座席の背もたれに触れることもなく,背筋を凛と伸ばし,起立・礼の挨拶の所作は,「美」さえ感じるものがあった。ここに賢明学院の,64年に及ぶ礼節の指導があるといえる。

 

入学式の式辞で一年生に問いかけてみた。

 

 

『寒い寒い日,旅人がおなかをすかして,道端で倒れていました。そこに三人の人が,通りかかりました。最初の人は,道端に倒れている人を見ても,見ないふりをして通り過ぎました。二番目の人は,旅の途中らしく,時間を気にしながら忙しいからと言い訳をして,通り過ぎて行きました。三番目の人も旅の途中でしたが,倒れている人の傍に駆け寄り,自分が泊まるホテルまで連れて行き,食事を準備し,ホテルの人にその人の治療費と宿泊費を渡し,十分に介抱してほしいと頼み,旅に出て行きました。話おわって「皆さんは,この三人の誰になりますか?」』

この私の問いに,幼い子どもたちは,声をそろえて「三番目の人」と答えた。この話は,ルカ福音書[1025節~37]に出て来る良きサマリア人の話を,児童用によくわかるように,少しアレンジして話してみたものだ。一年生は理屈ではなく,困っている人を助けなければならないということは,よくわかっている。今は忙しいとか,私がしなくても他の人がするなどとの理由や言い訳はしない。正しいこと,良いことは,どんなことかと理解している。自分にしてもらいたいことを,他の人にもしなければならないという,行動の価値基準をすでに知っているのだ。これは,ルカによる福音書6章31節~36節の内容を,理解していると言える。

 

【ルカ福音書6章】

 

31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

 

36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。

 

創立者は,「あなたの良いと思うことを何でもしなさい」と,子どもたちにも教職員にも教えている。すでに奉仕することを知っている子どもたちの心を,鈍くしないようにすることが,賢明学院の校訓「祈りなさい。学びなさい。奉仕しなさい。」を生かした教育だと考えている。

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫