優しい心を育むカトリック教育

2018/11/26

国語の教科書から 大阪書籍

司馬遼太郎先生の文章が,六年生の国語の教科書に掲載されていた。『二十一世紀に生きる君たちへ』という題である。テレビの番組のためだろうか? 切れる子どもたち・すぐに人をたたく子どもたち・蹴る子どもたち等,コメディアンが織りなす突っ込みの場面だけを模倣する子どもたちが多くなったと感じる昨今,点数だけが成功の秘訣と思い込んでしまっている子どもたちに,「自分は何のために生まれ,どのように生きていくべきか」を考えてほしいと思う。小学生だけではなく,中学生にも高校生にも読んでほしいと思う内容の文章であった。NETで検索しても,読むことが出来る作品だ。

 

文字だけを読むのではなく,文字の奥にある「作者の思い」を洞察してほしい。話の筋だけを楽しむのではなく,その奥にある作者の意図を感じてほしい。読書の季節と言われる今,読んだ作品から考えることも,大切にしてほしいと願う。 

 

以下に『二十一世紀に生きる君たちへ』の抜粋を載せます。ぜひ原文を読んでください。

 

 

昔も今も,また未来においても変わらないことがある。そこに空気と水,それに土などという自然があって,人間や他の動植物,さらには微生物にいたるまでが,それに依存しつつ生きているということである。

 

― 略 -

 

さて,自然という「不変のもの」を基準に置いて,人間のことを考えてみたい。 人間は,―くり返すようだが―自然によって生かされてきた。古代でも中世でも自然こそ神々であるとした。このことは,少しも誤っていないのである。歴史の中の人々は,自然をおそれ,その力をあがめ,自分たちの上にあるものとして身をつつしんできた。この態度は,近代や現代に入って少しゆらいだ。

 

人間こそ,いちばんえらい存在だ。という,思いあがった考えが頭をもたげた。二十世紀という現代は,ある意味では、自然へのおそれがうすくなった時代といっていい。

 

― 略 -

 

さて,君たち自身のことである。 君たちは,いつの時代でもそうであったように,自己を確立せねばならない。自分に厳しく,相手にはやさしくという自己を。そして,すなおでかしこい自己を。 二十一世紀においては,特にそのことが重要である。二十一世紀にあっては,科学と技術がもっと発達するだろう。科学・技術が,こう水のように人間をのみこんでしまってはならない。川の水を正しく流すように,君たちのしっかりした自己が,科学と技術を支配し,よい方向に持っていってほしいのである。

 

― 略 -

 

私は「自己」ということをしきりに言った。自己といっても,自己中心におちいってはならない。

人間は,助け合って生きているのである。私は,人という文字を見るとき,しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って,構成されているのである。そのことでも分かるように,人間は,社会をつくって生きている。社会とは,支え合う仕組みということである。 原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり,今は,国家と世界という社会をつくり,たがいに助け合いながら生きているのである。 自然物としての人間は,決して孤立して生きられるようにはつくられていない。

 

― 略 -

 

このため,助け合う,ということが,人間にとって,大きな道徳になっている。助け合うという気持ちや行動のもとのもとは,いたわりという感情である。 他人の痛みを感じることと言ってもいい。やさしさと言いかえてもいい。 「いたわり」 「他人の痛みを感じること」 「やさしさ」  みな似たような言葉である。この三つの言葉は,もともと一つの根から出ているのである。 根といっても,本能ではない。だから,私たちは訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは,簡単なことである。例えば,友達がころぶ。ああ痛かったろうな,と感じる気持ちを,そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。

この根っこの感情が,自己の中でしっかり根づいていけば,他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。君たちさえ,そういう自己をつくっていけば,二十一世紀は人類が仲よしで暮らせる時代になるのにちがいない。

 

大阪書籍発行「小学国語」6下

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫