優しい心を育むカトリック教育

2019/10/31

時代

時間が流れ,すべてが変化した集大成を,後世の人が「時代」と称するのだろう。変化を受け容れる柔軟さが,これからの時代に一番必要な事となるのではないだろうか。子どもの頃,駅の改札にはたくさんの改札口があり,その各ボックスに駅員がいて,切符を切っていた。この様子を,子どもたちに説明してみても,ピンとこないらしい。生まれた時から自動改札があたり前である世代には,自動が珍しかった世代の,時代に関する感傷は伝わらないのかもしれない。大阪で万国博覧会が開かれたときに,初めて動く歩道が出来た事や,自動販売機が昔はなかった事などに興味はなく,過去よりもこれからの時代に興味が湧くのは,昔も今も若者の特権なのだろう。

 

時代の変化を受け止めるのは,八瀬童子の人々も同じだ。八瀬の集落には,当時の皇后,美智子妃の歌が刻まれた歌碑がある。「大君の 御幸(みゆき)祝ふと 八瀬童子 踊りくれたり 月若き夜に」この歌は平成168月,当時の天皇皇后が京都に行幸した夜,京都御所に招かれた八瀬童子たちが,御所の前庭で八瀬に伝わる踊りを両陛下に披露したときのものだ。

 

 

京の都を守る「鬼門」に位置し,比叡山延暦寺の麓にある八瀬の地は,天皇家にとっては特別な意味を持っている。この集落には「八瀬童子(やせどうじ)」と呼ばれる人々が住んでおられ,彼らの祖先の中にはこんな言い伝えがある。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇が,足利尊氏と争って比叡山に逃れたとき,八瀬童子たちは後醍醐天皇が乗られた御輿(みこし)を担いだというのだ。これが単なる伝説ではない証拠に,建武3(1336)年,後醍醐天皇が実際に八瀬童子に対して功績を認めて,課役免除の特権を保障した綸旨(りんじ)(=天皇の公文書)から,明治天皇に至る25通の歴代天皇の綸旨が現存している。さらに600年以上の間,八瀬童子は天皇家に鮎,栗,栢(かしわ)を献上し,時に御所の輿丁(よちょう)を務めてきた。この事から八瀬は,天皇との特別なつながりを認められた土地と言える。

 

明治維新を経て,天皇は東京へ去ったが,一つだけ八瀬童子には役割が残った。それは,天皇が亡くなったとき,大喪の礼で棺(ひつぎ)を,そして御位(みくらい)に上る大礼では輿を担ぐという役である。

 

明治,大正,二代の天皇が崩御した折,八瀬童子は大挙上京して棺を担いだが,平成元年,昭和天皇の大喪の礼では,棺は自動車で武蔵野陵に運ばれた。葬送の一部では,古式装束を着た皇宮護衛官51人が棺を担ぎ,八瀬童子は宮内庁より「霊柩奉遷(れいきゅうほうせん)の補助者」と指定され,7名だけがその任にあたった。このような変化も,時代の変化と受けとめるべきなのだろう。

 

人事異動がある役人たちに,何時までこの歴史が正しく伝えられ,そして八瀬の人々と天皇家との繋がりがきちんと伝わるのか心配だ。

 

「老齢は明らかに迅速なり。   われらに必要以上に迅速に切迫す。」

 ― プラトン ―   古代ギリシアの哲学者 / 紀元前427~前347

 

 

「一日一字を記さば 一年にして三百六十字を得、 一夜一時を怠らば、 百歳の間三万六千時を失う。」

― 吉田松陰 ―   幕末の長州藩士。明治維新の精神的指導者 / 18301859

 

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫