2016/11/18
2016年11月18日(金)
あるひとが,弟子に説法しているとき,一本の花をひねって見せた。
弟子たちはその意味を理解できず沈黙していた。
ただ一人の弟子がその行為を悟って,にっこりと笑った。
言葉で表せない奥義を理解できる者とはこういう人の事であろう。
言葉を使わず,心から心へ伝えることができたら,どんな世界が広がるのだろう。
京の町は,海外からの観光客が増え異国情緒が漂う町へと変貌した。
浴衣姿の人は大半が,他国からの旅人である。
祇園のたたずまいも喧騒が簾を揺らし,様子は一変してしまった。
「浴衣の帯は,もっと下でしょう。」
「男の帯の位置と女の帯の位置は違うのに。」
「それは浴衣の模様じゃないですよ。」
「浴衣にスニーカーはなんとも・・・」
「襟が右前左前なんでもいいのか,今は・・・?」等,街の衆の嘆きはつきない。
こんな嘆きをよそに,他国からの旅人は,楽しそうに浴衣をはおり,
裾の乱れも気にせず日本を楽しんでおられる。
初老の人々はこのありさまを嘆くが,
文化も伝統もこのような機会に見直され,いつの間にか変わってきたのだろう。
「日本は,そんなんじゃないよ」
「文化を,伝統を分ってよ」
と,すれ違う異国の人に微笑んではみるものの通じた気配はない。
今,京都は圧倒的数の多文化に翻弄されている。和の心は言葉で通じないものがある。
「そこはかとなく」や「ほっこりした」という言葉の正確な翻訳は不可能であろう。
共に食べ,共に笑って,共に感動し,
そこから通じていく真実を知るのが拈華微笑という悟りだったのではないだろうか。
そういえば小雨降る路地で,
相手の邪魔にならないように「互いの傘を外へ傾げ(かしげ)」互いが微笑みすれ違った。
微笑みの中に「お先に失礼します」とか「おおきに」という互いを気遣う心があった。
今の路地でのすれ違いは,どっちが先に上にあげるかという傘の上下関係になってしまった。
微笑みを忘れた互いの傘を上下してのすれ違いは,あげ遅れた者が傘を下にしてすれ違う。
何か無くしてしまったのではないだろうか。
もう一度,傘を傾げて微笑みを交わす街に戻したい。
学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫