優しい心を育むカトリック教育

2016/12/27

年の末に思うこと  ≪時≫

2016年12月27日(火)

 

gakuintyo-20161227

 

年末になると気忙しい,一年という締めくくりの時であり清算しておくべきことが集中するからだろう。文字を見ると,何を亡くすと書くのだろうか・・・・

 

漢字の成り立ちを知り,意味を考えると人前で忙しいと言い難くなる。今年はオリンピックの年だから366日生きてきたのだ,8784時間生きた。527,040分生きた。「あなたは,今年は何しましたか。」と問われると詳細に書ける時間帯はごく最近の事に限られる。時間と言うのは不思議だ,過ぎ去ってしまうと霧中のなかに見え隠れし,いつしか忘却の彼方に連れ去ってしまう。だから,未来に向かって生きていけるのかもしれない。

 

あなたに時間がどれだけあるかというのは問題ではない。

むしろ、時間をどう使うかが問題なのだ。

                  ―ケリー・グリーソン―

                 (米国の能力開発の権威)

 

ことしも一年が過ぎ去っていく,賢明学院の子どもたち(園児・児童・生徒)は素晴らしい結果と成果を残してくれた。近畿大会・全国大会など酷暑の夏の試合,自分たちで振付から考え全国大会出場を果たしたクラブ,本学院のクラブ関係の成果を掲げると限りがない。年末になって高等学校の大学進学を表す掲示板には,貼り付ける場所がないほど有名大学の合格結果が表示されていく。年の瀬の恒例の光景である。賢明生にとっては,合格が最終目標でない,単なる入り口であり,自己をみがいた評価である。重要なのは次の出口だ。そして出口の次に広がり続ける社会での活躍だ。社会への入り口であり,大学生生活の出口を出たら保護は急激に減り,自身の真価が問われる場が広がる。自立・自主・自律を学んだ賢明生のさらなる活躍の場がある。彼らは,どのような社会人になり国際社会を担っていくのだろうか。楽しみだ。

 

今年一年の賢明の子どもたちの数々の活躍の陰で,教師たちがもっと頑張ってくれた一年だ。「言われていないけど,自ら進んで取り組む」創立者の精神性が,暗黙の了解のような賢明を包み込んでいる。

 

幼稚園・小学校・中学校・高等学校の教員そして彼らを支える職員。この一体感があるからこそ最前線の先生がたの自己献身が意図も当然のごとく営まれているのだろう。校訓に“奉仕せよ”という言葉が刻まれている。教えることの難しい言葉だ。説明はできても,行為として理解することは難しい。しかし,賢明の教職員は背中で奉仕とは何かを園児・児童・生徒に伝えている。これらの営みが賢明学院の今年自慢できることの一つだ。

 

年の瀬にいつも読む聖書の箇所を紹介して今年のブログを終わります。

皆さまに感謝いたします。

そして,新年ますます皆様に幸多いことをお祈りいたします。

 

 

【コヘレトの言葉】

 

何事にも時があり,天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時、保つ時、放つ時

裂く時、縫う時、黙する時、語る時

愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。

 

人が労苦してみたところで何になろう。

わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。

 

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。

 

わたしは知った、人間にとって最も幸福なのは、

喜び楽しんで一生を送ることだ、と

 

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。

苦しみの日々が来ないうちに。

「年を重ねることに喜びはない」と 言う年齢にならないうちに。

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫