2017/03/15
2017年3月15日(水)
賢明学院では毎月の初めに,当月に誕生日を迎える児童・生徒のための,祈りの集いがある。
3月14日は,今年最後の誕生月の祈りがあった。毎回,短いお話をしてくださいと頼まれ,三分以内に話をまとめようとするがなかなかそうはいかない。短い話ほど難しいとはよく言ったものだ。
2016年度は,『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ,キリスト・イエスにおいて,神があなたに臨んでおられることです。』
(テサロニケへの手紙5章16節から18節)
わたしの話しの後に,担任の先生からのメッセージが書かれたお祝いのカードが配られる。その文面を読む児童・生徒の顔の輝きを見るたびに,私の話はいらなかったと毎回思う。校長先生からカードが手渡されると,子どもたちは担任の先生からの言葉を食い入るように読み,にっこりする。そして友達と見せ合う。嬉しさを伝える言葉や,ありがとうの言葉の代わりに,輝いている顔がそこにある。聖書の解説の言葉より,先生がお祝いの言葉を書いてくれた喜びが顔にあふれている。この顔が,今日の聖書が伝えようとしたことではないのだろうか。
『先生が喜びを伝える。その言葉は,児童・生徒への祈りであろう。心が伝わった時,感謝の思いや情は泉のように湧き出てくるのではないだろうか。それが,私たちに望まれた神の思い。』
【ニューヨーク市立大学病院の壁の落書きの詩】と伝えられている言葉が,誕生日を60回以上迎えると心に響く。人生を振り返るようになった誕生日に贈りたい言葉の一つだ。
大きな事を成し遂げるために 力を与えてほしいと神に求めたら
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに
より良きことができるようにと病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の中の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに
得意にならないようにと失敗を授かった。
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにといのちを授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが,願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中で言い表せないものはすべて与えられた。
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されていたのだ。
【A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED】
I was made weak, that I might learn humbly to obey.
I asked for health, that I might do greater things.
I was given infirmity, that I might do better things.
I asked for riches, that I might be happy.
I was given poverty, that I might be wise.
I asked for power, that I might have the praise of men.
I was given weakness, that I might feel the need of God.
I asked for all things, that I might enjoy life.
I was given life, that I might enjoy all things.
I got nothing that I asked for—but everything I had hoped for.
Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.
I am among all men, most richly blessed!"
学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫