優しい心を育むカトリック教育

2017/03/14

Parable of the Good Samaritan (ルカによる福音書10章25節から37節)

2017年3月14日(火)

 

巣立ちゆく子ども達に伝えたい言葉や,願いがある。

新しい時代を創生して行く若者たちに,何を伝えるべきなのか,多くの教師が伝えるべきことの多さに戸惑い,伝えきれないことをもどかしく感じるときでもある。

 

かたよらない心 こだわらない心を持っていてほしい。

とらわれない心 ひろく  ひろく もっとひろく心を育ててほしい。

「隣人」となってほしい。

 

エルサレムから エリコ(世界最古の町)へ行くその道は,追いはぎ,山賊が出没し,通る人たちの金品は勿論,命も何もかもすっかり奪い取ってしまうという・・・そんな物騒な所だったようです。

イエスは,そのような場所で盗賊にあったイスラエル人に救いの手を差し伸べるサマリア人の話をします。 ひどい目にあった人は,それだけでも災難なのですが,さらに追い討ちをかけるように,次々に通る人から見捨てられてしまいます。

 

最初に,通りかかったのは,社会的にもそれなりの地位のあった祭司で,人にものを教えたり指導したりする立場にあった人なのですが,倒れている人に気が付くと,まるで何も見なかったように,道の反対側をあるいて行ってしまいます。

 

つぎに,近づいてきたのは,レビという部族の人でした。イスラエル人とレビ人は,いがみ合うことはなかったらしいようですが,どうにも相容れず互いに許しがたい相手であったようです。その人も先の祭司と同じく,まるでそこには何もないかのようにして,道の向こう側を歩いて行ってしまいます。

 

半ば死にかけたイスラエル人をみて,気の毒に思い,近寄って様子を見,傷の手当てをして宿に連れて行き,一晩見も知らぬ死にかけた人の介抱をしたのはイスラエル人に軽蔑される側のサマリア人でした。翌朝,「自分は行かなければならないので」といって,宿の主人に,怪我人の介抱を頼みます。その時,サマリア人の彼が宿の主人に渡したお金というのは,2デナリオンだったとあります。(1デナリオンは当時の人のひと月分の賃金に相当。)「帰りに寄るので,もし足りなかったら言ってくれ」と伝え旅立ちます。この話の最後には,こういう質問があります。

 

『さて,この中の誰が追いはぎに襲われた人の隣人となったか?』

 

隣人というのは隣に住む人という意味意外に,そば近くにいる人,という意味もあるのですね。物理的な隣人ではなく,心が近くにいる人,ここでは隣人とは心が近くにいる人として教えられているのではないでしょうか。できることを惜しみなく行う人,自分の事のように感じる人,そして行動する人の事を「隣人」と教えているのでしょう。

 

誰にでもできること。それが,良きサマリア人の始まりです。大きなことを最初から試みないこと。いちばん簡単で,些細なことから始めてみましょう。それが一番難しいかもしれませんが。続けることは価値あることです。第一日目はまず,一人の人にあいさつしましょう。「おはようございます。」次の日は二人に,その次の日は三人に,少しずつ隣人を増やせます。無関心ではなく,私と出会う全ての人に声をかけることが,隣人の始まりでしょう。

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一週間たてば街は変わります。暖かい,いい雰囲気の街になります。一人で始めることができる「隣人」になる方法です。

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫