優しい心を育むカトリック教育

2017/03/24

吾唯足知

2017年3月24日(金)

 

何の記念品だったか記憶にないが,私の部屋に『吾唯足知』と書かれた置物がある。和同開珎を模して中央に四字の漢字に含まれている「口」がデザインされており, 今や,好きな言葉の一つとなっている。知足(たるをしる)とは,欲しがることをやめてみるという意味だ。はたして,できるのか・・・

 

夢や希望を捨てるという意味ではない。過大な欲望を持ち,それが生きるエネルギーになっている人もおられる。その逆が「知足」ではない。

 

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「足るを知る」と聞けば,京都・竜安寺の「吾唯足知(われただたるをしる)」と書かれたつくばいが有名だ。私達は欲望を無限にふくらましてはならない。これで充分,つまり「ごちそうさま」と言える心を忘れてはならないという戒めであると理解している。「足ることを知る人の心は穏やかであり,足ることを知らない人の心はいつも乱れている」と言われる。「吾唯知足」は,「ごちそうさま」「もう充分」「もう結構です」の心を教えているのであろう。

 

「吾唯知足」は現代の日本人が理解出来にくい言葉の一つ実行しにくい言葉の一つであろう。

聖書にも理解しにくい言葉がある。イエスは群衆を見て,山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは教えられた。

 

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」日本的イメージでは心貧しいとは,よくないという意図が含まれているが,ここでの理解は異なる。

 

初期の教会はヘブライ人を中心とした共同体から始まり,その後ギリシャ語世界に広がったため新約聖書はギリシャ語で書かれている。ギリシャ語原文では,「霊において『貧しい』人」とされているが,日本語では単に「貧しい」と訳されたので読んだ人が「えっ」と考えさせられてしまう。ヘブライ文化でいう「貧しい」は,もっと広い意味の単語で,貧しい(何も持たない),柔和な,謙虚な,虐げられた等々,多様な日本語に訳される。

 

日本語の心の貧しいというイメージとの隔たりが議論をよぶが,本来の意味は「柔和/謙虚な人」「神にのみ,拠り頼む人」の意味となる。日本語の「貧しい」という言葉には,「神のいつくしみとあわれみを乞う者」という意味が含まれていないから理解しにくい個所となっている。

 

日本的には,足るを知り強欲にならないことが大切であり,問題や悩みの根本は「欲」だと教えられたことが今になって理解できる。

 

千利休は,茶道の心得として「家は漏らぬほど,食事は飢えぬほどにて足る事也」と教えられた。必要な分を必要なだけ用意し,茶を点ててまず仏に供え,人に差しあげ,施し,最後に自分もいただく「利他」の精神がそのまま自分の幸せであると教えている。

 

すべての人間が我欲を張らずに「自利利他」の精神で行っていけば,争いや,問題も起こさずにすむのだろう。 そう願う。巣立っていく生徒がこの精神に気づき,『奉仕』の精神で生き続けてほしい。

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫