優しい心を育むカトリック教育

2017/05/20

祈れ・学べ・奉仕せよ

2017年5月20日(土)

 

毎朝,本校のチャペルに一人の姿がある。チャペルの後方のいすに座り,静かに祈っておられる。何を祈っておられるのかと尋ねる必要も感じないし,そんな必要はない。その後ろ姿から,人を育てる偉業を託された教育者としての謙虚さが伝わってくる。本校の校訓としての「祈れ」は園児・児童・生徒そして教職員へ,また保護者にも向けられた呼びかけであると捉えたい。

 

校訓は,「祈りましょう。心を一つにして祈りましょう。全ての人の為に祈りましょう。自分の為に祈りましょう。」と促している。毎朝,小学校から高校まで完全な沈黙の祈りの時がある。人工芝のグランドから校舎を仰ぎ見ても,廊下を歩いても観想修道院のように静寂な時が訪れている。本校の「大いなる沈黙」の時だ。沈黙の時,静寂な時の価値は,今は理解できなくても,自分たちが卒業すればこの尊い価値に気が付くだろう。それにしてもこのように,全校生が静寂の時を作り出すことができるのは大したものだ。静かにさせようとする先生の注意の声も,叱責する声も聞こえてこない。来客者たちはこの静寂さに敬意を表し,受付で静かにたたずんで,沈黙の時が終わるのを待っておられる。

 

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沈黙の時が,人の心に祈りの素地を培っていくのだ。手を合わせることや,チャペルで姿勢を正し,沈黙でいる時,聖歌を歌う時,声をそろえて祈る時,心の陶冶がその折々で繰りなされて,生徒たちを育てているのだろう。

 

決められた祈りの言葉に,各自が心をそわせて唱和する祈りも指導したい教えだ。また祈りは,毎朝チャペルで祈っておられる先生のように個人的なものであり,神との語らいの時でもある。何をしていいかを迷う時,困難に直面している時,決断しなければならない時,幸せを感じた時等,祈る機会は日々の中には多い。その時を祈りの機会にできるか否かが,賢明学院の教育だろう。

 

校訓の「祈れ」は,祈る時を持つことによって,心を育てよ,自身の力で心を育てよ,祈る機会によって自立せよ,祈る機会によって自主性を持て,そして自律せよと促している。祈りの言葉を覚えることが目的ではなく,祈る機会により祈りを経験することによって,より偉大なものを感じ畏敬の念を育て,神の前に,人の前に「義の人」であるように育てと願っているのである。

 

マザー・テレサは生前、「これはわたしの名刺みたいなものよ」と言いながら,出会った人々にカードを渡しておられました。

 

静けさの果実は、祈りである。 The fruit of SILENCE is Prayer.  

祈りの果実は、信仰である。  The fruit of PRAYER is Faith.  

信仰の果実は、愛である。     The fruit of FAITH is Love.  

愛の果実は、奉仕である。   The fruit of Love is Service.  

奉仕の果実は、平和である。  The fruit of SERVICE is Peace.

 

※観想(かんそう)修道会は,基本的に修道院の中だけで祈りと黙想,労働を中心とした生活を送る修道会です。神の豊かなめぐみをすべての人の上にもたらすよう、神のみことばの黙想に励みます。

≪私たちの祈り≫ (桐生の聖クララ会のホームページ参照)

沈黙と孤独、祈りと償い―それは、観想生活の4本の柱です。 私たちは祈りのうちに、神様を礼拝し賛美し、そして感謝を捧げます。 毎日の典礼“御ミサ”と“教会の祈り”の中で、詩篇や聖歌を歌うとき、今、喜びのうちにある人、また、悲しみのうちにある人、苦しんでいる人々、心と体の病気に苦しむ人々 家庭や人間関係、仕事上の問題、仕事を失った人々の心の思いを神に捧げ、そして、その人々の心を抱いて神に祈ります。

災害や事故で苦しむ人々、 戦争やテロの恐怖の中にいる人々の為に祈ります。

祈りによって、今、臨終のもだえの中にいる人々、今日、臨終を迎える人々の傍らにいます。

そして、亡くなった人々の永遠の安息の為にお祈りしています。

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫