優しい心を育むカトリック教育

2017/08/23

模擬原爆の投下地点

 

2017年8月23日 

 

私が小学校時代を過ごした,大阪市東住吉区田辺本町から北へ5分ほど歩むと田辺小学校がある。この小学校の西向かい側の角に,石碑が立っている。自宅から地下鉄谷町線の田辺駅へ向かって歩いている時,ふと目にとめたのがこの石碑である。

 

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何気なく立ち止まって石碑を眺めてみると,そこには模擬原爆投下地点と刻まれていた。驚いた,自分の住んでいたこんな身近な地点に原爆投下の足跡があったのだ。その石碑は,2001年3月に建立されていた。戦後56年を経過して記念碑が建てられた事にも疑問を感じたが,こんな身近に戦争の痕跡が残っていることに驚いた。

 

記録によれば,太平洋戦争終了直前の1945年7月26日午前9時26分、1機だけで淡路島北部から大阪に侵入してきたアメリカ軍のB29爆撃機は、大阪市東住吉区田辺小学校の北側に大型爆弾を投下し、大阪湾を南へぬけていった。たった1発の大型爆弾によって,死者7人,重軽傷者73人,倒れた家485戸,被災者1645人の被害が出たと記載されている。当時の人々は、知る限りの大型爆弾ということで「1トン爆弾」が投下されたと話していた。実際は,「5トン爆弾」(1万ポンド)であり,しかも原子爆弾を投下するための模擬原子爆弾で、これを使って原爆投下の実地練習をしていたのであった。このことがわかったのは1991年のことだった。

 

「模擬原爆」投下の事実は、愛知県春日井市の「春日井の戦争を記録する会」の人々が国立国会図書館で戦時中のアメリカ軍文書を調べて「発見」した。関西大学の小山仁示教授が「大阪市市街地」と記されていたその地点は東住吉区田辺であったことをつきとめ、そのことが報道されると被災者から情報が寄せられ爆心地や被災の状況が具体的に明らかになった。1993年大阪大空襲の体験を語る会が「原爆模擬爆弾の証言集」を出版、2001年には地域の人達が追悼式等を行い「田辺の模擬原爆証言集」を作成、お父さんを亡くされた村田さんが跡地近くに碑を建立された。(「大阪市内で戦争を考える」ホームページより)

 

お友達と仲良くしなさい,けんかをしたら仲直りしなさい,人には優しくしなさい等は,親も先生も子どもたちに必ず教えることだ。今は「戦争をしてはいけません」「テロを起こしてはいけません」など,もっともっと声を大にして教えるべきなのだろう。相手と意思疎通がうまくいっていない状態では,子育ても教育もできない。言わなくても解ってくれるだろうというあやふやな思いは,今の時代予想もしない結果を生むことがある。「許す・赦す」という漢字では表せない,『ゆるす』という言葉の意味の奥義を教え伝えるのが,私たち大人の使命ではないだろうか。模擬原爆が投下され,たくさんの人が被災し,犠牲になった人々がいたことも知らずに,この辺りを自転車で走り回り,友達と遊んでいた。その場所が悲劇の地でもあった。

 

人間は何故目先のことにだけ,自分の利害にだけ意識を払い,人類の平和や地球の未来を一人ひとり真剣に受けとめて考えないのだろうか。人間ってそんなに情けない生き物なのだろうか。

 

Audrey Hepburnの好きな言葉

『年をとると,人は自分に二つの手がある事に気づきます。

一つは自分を助ける手。そして、もう一つは他人を助ける手。』サム・レヴェンソンの詩から抜粋

 

Audrey Hepburn  オードリー・ヘップバーン  国: 英国(ベルギー出身)の女優

アカデミー賞、トニー賞、エミー賞、グラミー賞のすべてを受賞。人生の後半のほとんどを国際連合児童基金(UNICEF)での仕事に捧げた。

誕生: 192954

帰天: 1993120日(享年63歳)

 

「愛は行動なのよ。言葉だけではだめなの。

言葉だけですんだことなど一度だってなかったわ。

私たちには生まれたときから愛する力が備わっている。

それでも筋肉と同じで、その力は鍛えなければ衰えていってしまうの…」

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫