優しい心を育むカトリック教育

2018/01/29

ステンドグラス Ⅳ 羊と聖書

2017年12月26日聖ステファノの記念日に,チャペルに入って右側に二連のステンドグラスが嵌め込まれました。ステンドグラスには祭壇に向う仔羊二頭と仔羊を愛おしく見守る親羊が描かれています。この三頭の羊たちは『祈れ・学べ・奉仕せよ』の建学の精神を象徴すると同時に,賢明に集う全ての子ども達を表しています。

 

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聖書が書かれた時代の生活と羊は密接な関係にあったので,聖書の中で羊はたとえの話の中に多く登場します。その中でも有名なのはマタイ福音書18:12節~13節とルカの福音書15:4節~7節は多くの人が知っている箇所です。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて,そのうちの一匹をなくしたら,その人は九十九匹を野原に残して,いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら,大喜びでその羊をかついで,帰って来て,友だちや近所の人たちを呼び集め,『いなくなった羊を見つけましたから,いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが,それと同じように,ひとりの罪人が悔い改めるなら,悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」

 

ここには迷い出た一匹の羊を血眼になって捜す羊飼いの姿が描かれています。賢明学院の精神もこの羊飼いに倣うように創立者は語り続けています。この羊飼いのようにイエス・キリストは私たちを懸命になって捜しておられるのです。私たちもこの羊飼いに倣い賢明に学ぶ生徒たちを導くべきなのでしょう。

 

一匹の羊を探す。この一匹を他の羊で代用することができないのです。羊飼いは「いなくなった一匹」の羊を愛しているのです。一人一人を個人的に愛しておられる神の愛に倣うべきです。

 

この羊飼いは99匹を野原に残して,迷い出た一匹の羊を捜しに出ました。一匹の羊を捜しに行っている間に、残した99匹は狼などの野獣に襲われるかもしれません。それでもかけがえのない一匹を探したのです。愛は打算ではないのです。

 

この羊飼いは,「いなくなった羊を見つけましたから,いっしょに喜んでください。」と言ったのです。本当の喜びというのは,分かち合うものです。分かち合うからこそ,喜びなのです。

 

「主は私の羊飼い。私は,乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ,いこいの水のほとりに伴われます。」(詩篇23:1~2)。

 

キリストを真の羊飼いとして生きる者の幸いがここに記されてあります。羊飼いのもとに帰って安らぎと憩いを見出している羊のように,何の心配もなく憩うことが出来るのです。賢明に集う子どもたちがこのように慈しみ育まれることを願います。

 

右下の隅に咲く百合の花は,賢明学院の設立母体である聖母奉献修道会のシスターたちの賢明の生徒たちを思い見守る,染み入る眼差しを表しています。聖書ではマタイ福音書6章28節~29節に書かれている花でギリシア語聖書では,「κρινον クリノン」と表記され,百合と訳されています。受胎告知の場面を表した絵画にも百合の花は登場し,「純粋」「無垢」「威厳」を表しています。

 

「また,なぜ,着物のことで思いわずらうのか。野の花(百合)がどうして育っているか,考えて見るがよい。働きもせず,紡ぎもしない。しかし,あなたがたに言うが,栄華をきわめた時のソロモンでさえ,この花(百合)の一つほどにも着飾ってはいなかった。

今日は生えていて,あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ,神はこのように装って下さるのなら,あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ,信仰の薄い者たちよ。」

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫