優しい心を育むカトリック教育

2018/01/31

ステンドグラス Ⅴ ブドウと聖書

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賢明学院のチャペルのステンドグラスには,どの場面にもブドウの実と若葉(成長を意味する)が描かれています。聖書の中でブドウは,ヨハネの福音書15章「わたしにとどまりなさい」に,用いられています。

 

この箇所は,エゼキエル書15章と関連していて,エルサレムの滅びの史実が,背景にあるのです。そして「ぶどうの木」である神を,忘れるべきではないと強調されています。

 

ヨハネの福音書15

「わたしはまことのぶどうの木であり,わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな,父がそれを取り除き,実を結ぶものはみな,もっと多く実を結ぶために,刈り込みをなさいます」

 

神を忘れないこと,すなわち神と繋がっていることが,大切ではないのでしょうか。カトリック校に入学したからと言って,洗礼を受ける必要も,改宗すること等も,必要ではありません。大切なのは人を愛すること,そして人を自分と同じように大切にすることを学び,このことを実行する行動力を身に着けることです。

 

ブドウの木に繋がっていれば,ブドウは必ず実を結びます。「実を結ぶものは,もっと多くの実を結ぶために刈り込みをする」と聖書では,訳されています。神の教えを忘れないことが,神に繋がっていること,また枝となることでしょう。賢明学院での毎日の生活の中で,聖書に触れ,神の愛を知った生徒たちが,一時であったとしても,人を自分と同じように愛することが出来たなら,実を結んだと言えるのではないでしょうか。

 

生徒たちが卒業してからも,同窓生と繋がりを続け,恩師とも繋がり続け,また新しい友と繋がり,そして最終的には,自分と神との繋がりを,思い出してくれることと信じています。

 

「多くの実」(ヨハネ15:5より)を結ぶ,また人生の中で豊かな実を結ぶことができたら,それはすばらしいことです。仕事の実を結ぶ,友情の実を結ぶ,恋の実を結ぶ, 愛の実を結ぶ,喜びの実を結ぶ,枝として実を結ぶ。 確かに枝が実を結ぶためには,ブドウの木に繋がっていなければなりません。ブドウの木から離れてしまっていては,実を結ぶどころか,枯れてしまうのではないでしょうか。

 

【消える傲慢と嫉妬】

わたしたちは,ぶどうの枝。

枝に力があるわけではないでしょう。枝は木につながっていたから,実を結ぶことができたにすぎないのではないでしょうか。枝が,自分だけで実を結べるわけではありません。そう考えれば謙虚になれます。

 

他の枝が成功の実を実らせても,他の枝(人)が多くの実を結んだとしても,妬む必要はない。その人も,兄弟であり,ともに枝です。他の人が実を結んだことを,自分のことのように喜べるのではないでしょうか。自分が,立派な大きな実を実らせたとしても,それを自慢するでもなく,素直に喜べるのではないでしょうか。

 

ここからは,優しさが誕生すると信じます。

『本当の優しさとは、相手を理解し、相手の心情を思いやる想像力を持つことです。』

出典  瀬戸内寂聴 「あきらめない人生」より

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫