優しい心を育むカトリック教育

2018/03/08

師道

生徒が登校した後の静けさの漂う靴箱の前に,毎朝一人の先生の姿がある。靴箱の生徒の靴を,837足の生徒の靴を,一足一足丁寧に整えておられる。時には遅刻寸前の生徒の靴だろうか,慌てふためいていた様子が,靴箱の中で踊っている革靴の姿から手に取るようにわかってしまう。靴の片方が,落っこちていることもある。きちんと整えて入れられている靴もあれば,靴箱の中に納まっていなくて,半分外に出て浮いている靴もある。その先生は,これらの靴を丁寧に整え,きっちりと靴箱の中央に揃えて置かれる。

 

 

その姿を拝見していると,教師の真髄を教えられた気がする。山本五十六は「やってみせ,言って聞かせて,させてみて,ほめてやらねば,人は動かじ」と,教育を解かれた。一方,無言の教育もあることを,この先生は実行なさっておられる。

 

ヨハネ福音書137節に「わたしがしていることは,今はあなたにはわからないが,あとでわかるようになります。」と書かれている場面が,先生の姿と重なる。自分の靴をそろえて下さっている先生がおられることを,生徒は知らないだろう。然し,必ず整った靴に気がつく時が来るはずだ。その時,生徒たちは人の為に尽くす事,また人に仕える事,校訓に掲げられている奉仕することの真意が,理解できるのではないだろうか。このような教育者に導かれている賢明学院の生徒たちは,幸せだと感じる。

 

キリストが最後の晩餐に臨む前に,弟子たちの足を洗われた場面とも,先生の靴を整えられる姿が重なる。キリスト自身が,足を洗う水差しやタライとタオルを用意し,12人の弟子の一人ひとりの足を洗われた姿から,私たちは何を学び実行すべきなのだろう。この先生が毎日続けておられる,生徒一人ひとりに心をかけるこの行為は,弟子たちの足を洗うキリストの思いと一つになる。

 

洗足式

 

2018年は329日 聖木曜日「主の晩餐の夕べのミサ」

洗足式とは,最後の晩餐のとき,イエス・キリストが弟子たちの足を洗い,「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから,あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」 (ヨハネによる福音書13:1-17,新共同訳聖書)との記録に基づき,司祭が信徒の足を洗う聖書の場面が再現されている。「仕えられるためではなく仕えるために」(マタイ2028)来られ,全人類の救いのためにいのちを与える「この上ない」(ヨハネ131)愛に駆り立てられたキリストに,自分自身を心底から一致させるように,この式は私たちを招いている。

 

教皇フランシスコは,昨年の聖木曜日の「主の晩餐のミサ」を,イタリア中部のパリアーノ刑務所でとり行われた。教皇は「主の晩餐の夕べのミサ」を,ラツィオ州フロジノーネ県パリアーノの刑務所で,受刑者と共に記念され「主の晩餐の夕べのミサ」の中で行われる「洗足式」で,教皇は代表の受刑者の足を洗われた。福音書でこの場面はヨハネ福音書にしか記載されていない。

 

ヨハネ福音書 第13章

 

1.過越(すぎこし)の祭の前に,イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り,世にいる自分の者たちを愛して,彼らを最後まで愛し通された。2.夕食のとき,悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に,イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが, 3.イエスは,父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと,また,自分は神から出てきて,神にかえろうとしているを思い,4.夕食の席から立ち上がって,上着を脱ぎ,手ぬぐいをとって腰に巻き, 5.それから水をたらいに入れて,弟子(でし)たちの足を洗い,腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。6.こうして,シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに,「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。7.イエスは彼に答えて言われた,「わたしのしていることは今あなたにはわからないが,あとでわかるようになるだろう」。

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫