優しい心を育むカトリック教育

2018/10/23

小さな手

ロザリオの祈りに参加した児童は,カードに参加の印のハンコを押してもらう。一つずつ目に見えて増えていくハンコの数が,子どもたちにとってはワクワクする楽しさを,知らず知らずのうちに教えてくれている。そして毎日続けていると,こんなにたくさんのハンコがもらえるということに気付き,継続することの大切さも学んでいる。

ある朝,ハンコを押してもらうために並んでいた列で,ハンコが入っている小さな缶に,低学年の子が躓いた。缶はタイルの上で大きな音を立て,中に入っていたハンコが散らばってしまった。躓いた女の子は,音の大きさと,周りに飛び散ったハンコを見て,呆然としている。

 

そのとき,小さな手がハンコを拾い始めた。誰に言われたのでもなく,また自分が躓いたわけではないが,その小さな手は,ハンコを一つひとつ集めて,元の缶に戻している。その様子に勇気づけられたのか,躓いた女の子も,ハンコを拾い缶に戻し始めた。ほんの僅かの時間ではあったが,自分がしてしまったのではない,後片付けをしている小さな手を持つ女の子の姿は,周りにいた人たちに,すがすがしさをもたらした。

 

イエスが人々に伝えようとしているのは,助けが必要な場で,この幼い女の子が自然と行った,思わず手を差し伸べる行為を,大切にしなさいということではないだろうか。

 

マタイ福音書181節~5

そのとき,弟子たちがイエスのところに来て,「いったいだれが,天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 そこで,イエスは一人の子供を呼び寄せ,彼らの中に立たせて, 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ,決して天の国に入ることはできない。自分を低くして,この子供のようになる人が,天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は,わたしを受け入れるのである。」

 

神の恵みや愛を理解するのに,学問や人間の知恵というものは,直接関係しないということだろう。必要なのは,幼子が持っている,素直な思いや行動ではないだろうか。

 

幼い子は素直である。しかし時には,わがままを言って泣いたりすることもある。このことで叱られても,恨んだりしないで,親にすがりついていくことが多い。親にすがりつけば生きていけることを,本能として知っているのではないだろうか。あんなに叱られたのに,親の姿を求める。神の存在を考えるとき,このような幼子の姿を常に思い出すことが,大切ではないだろうか。

 

 

聖書のマタイ福音書では,「子どものように」と訳されているが,「ように」という言葉は原文にはなく,「子どもに」お示しになったと記されている。ここで理解しなければならないのは,神の存在を信じることや学ぶためには,学問のある者や,頭の良い者という識別ではなく,まだこの世の知恵も知識も力も何も無い,幼子の前に現れられたということから,神は,素直な心を持つ者の前に現れたと,理解すべきではないだろうか。

 

何も計算をしないのが,子どもの特徴であり,よく見せようとか,よく思われたい,また徳になることをしたいというような思いは,大人の思考である。だから,イエスは「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ,決して天の国に入ることはできない。自分を低くして,この子供のようになる人が,天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は,わたしを受け入れるのである。」と告げられた。純粋な人は,心の目で神を見ることができる。

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫