優しい心を育むカトリック教育

2019/02/08

明治時代の日本女性

2019年2月1日は,日・EU関係の,記念すべき日というニュースが報道された。

 

 

昨年12月21日,欧州連合(EU)と日本は,経済連携協定(EPA)に関して,それぞれの批准手続きが完了したことを,相互に通告した。これによりEPAは,2019年2月1日に発効し,日本とEUの関係は,新たな段階に入る。また,日・EU 戦略的パートナーシップ協定(SPA)も,2018年12月21日に,日本が自身の批准手続きが完了したことを,EU側へ通告した。これを受け,SPAの大半の規定も,2019年2月1日から適用となる。日本とヨーロッパ諸国の新しい時代が,今年始まったと言える。

 

イギリスが,EUから脱退するというヨーロッパ政情の変化と,日本とEUの新しい関係を報道するニュースを見て,私が教壇に立っていた現役の頃,社会科の授業で欧州全体を一体的に捉え,1つに統合する,あるいは,一体性を高めることを志向する思想についての授業をしたことを,懐かしく思い出した。生徒にとっては,ヨーロッパ旅行の時,ヨーロッパ内の移動時に,パスポートの審査が無くなる程度にしか理解出来なかったのではないかと思う。しかし,この共同体の立役者となった人物が,日本と深く関わりがあることは,覚えてくれているだろうか。

 

EU共同体の考えは,リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーを嚆矢として1920年代から始まり,欧州統合活動を伴う思想を,生徒たちは世界史や政治経済の授業で学ぶ。彼の名前に日本名が含まれていることは,授業時数の関係で触れていないのが事実だ。汎ヨーロッパ思想の立役者Richard Eijiro von Coudenhove-Kalergiの母は日本人なのだ。

 

Eijiro「エイジロウ」は,オーストリア・ハンガリー帝国の駐日大使だった父ハインリヒと,東京生まれの青山光子の次男として生まれる。一家はベルギー、ポーランド、ギリシャ、ベネチアなど欧州各地域の貴族の血を引く名門。領地のボヘミア(現在チェコ)で育った後,ウィーン大学で哲学博士。ウィルソン大統領の国際連盟創設などに影響を受け、汎ヨーロッパ主義の運動を開始。第一次大戦終結後の1922 年,リヒャルトはドイツとオーストリアの新聞誌上で「パン・ヨーロッパ」構想を発表した。1923 年には『パン・ヨーロッパ(Pan-Europa)』という単行本を出版し,この年に汎ヨーロッパ社(Paneuropa-Verlag)を設立した。1992年にオットー・フォン・ハプスブルクらと汎ヨーロッパ連合を創設する。

 

彼の母親の光子さん(生年1874年明治7年7月16日,没年1941年昭和16年8月28日)について,海外で生活することが比較的一般になった現代の若者に,学んで欲しいことがある。第一次世界大戦前に,ヨーロッパで生活しなければならない日本人女性の苦悩と現実は,いかなるものだったのだろう。差別や異文化との戦いと言うべき日々の生活など,今では考えられない昔の生活の様子から,現代に生きる私たちが,新たに学ぶべきことがあるのではないだろうか。Richard Eijiro von Coudenhove-Kalergiの母,クーデンホーフ光子さんは,明治25年,オーストリアの伯爵ハインリッヒ・クーデンホーフに見初められ結婚,22歳で欧州に渡る。夫の急死により32歳で寡婦になった光子さんは,女手ひとつで七人の子を育て上げ,“黒い瞳の伯爵夫人”と称せられる。光子さんの書籍も出版されているので,ぜひ読んで欲しいと思う。

「クーデンホーフ光子の手記」 (河出文庫) 「ミツコと七人の子供たち」 (河出文庫)「クーデンホーフ光子伝」等

 

光子さんに対する評

・日本政府に届け出された正式な国際結婚の第一号
・光子の美貌は、ジャポニズムの象徴とされた
・当時ウィーンの社交界で人々の注目を集め「黒い瞳の伯爵夫人」と言われた。
・日本人でただ1人、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会話した人物。
・息子リヒャルト(栄次郎)がアメリカ映画「カサブランカ」の題材になる。
・当時の日本人には珍しい八頭身の東洋美人と伝えられている。
・ミュージカルにもなる。(「MITSUKO」~愛は国境を越えて~)

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫