優しい心を育むカトリック教育

2019/05/14

生きていく

「元号って何?」 「誰が決めるの?」 「なんで変わるの?」

「元号が変わると,何が変わるの 楽しくなるの?」

「元号変わったら,宿題なくなる?」

 

「そうだねぇ・・・・」

 

子どもにとって時代とは,自分で関わることが出来ないものであり,その時代の中で生かされて,受け身にならざるを得ない時の動きなのであろう。言い換えれば,大人が時代に責任を持ち,この時代に生きる子どもたちを,育んでいかなければならないのだろう。そして,進歩の時代・AIの時代に生きていく子どもたちに,何を伝え残しておくべきなのか,私たち大人は,しっかりと考える必要がある。

 

自分の過去を振り返ってみると,吉田拓郎の「今日まで,そして明日から」の歌の歌詞とかぶさってくる。何かのとき,しがみつける相手,力を貸してくれる人が,未来の時代を担う子どもたちの前に,現れてくれる事を祈るばかりだ。そして真理を伝える事,真理を見定める力を培っていく事が,私たちの使命ではないかと考えている。

 

『わたしは今日まで生きてみました  時にはだれかの力をかりて  

時にはだれかにしがみついて     わたしは今日まで生きてみました  

そして今 わたしは思っています     明日からも  こうして生きて行くだろうと 』

作詞:吉田拓郎 作曲:吉田拓郎

 

学生時代,ラテン語の授業があった。その授業では多くの名言を覚えたというよりも,覚えさせられたという記憶の方が強い。その中で今も覚えている短文に,「VERITAS LIBERABIT VOS」というものがある。直訳すると,「真理は,あなたたちを自由にする」という意味になる。当時はこの意味が解らなかったが,最近になって少々理解出来るようになってきた。

 

 

世界各地の情報や,知識・知恵を,インターネットの活用で知る事が出き,そこから自由な発想を巡らす事によって,新たな可能性を手に入れる事も出来るようになった。つまり知恵や知識によって,人間形成がより革新的になったという意味と,福音書が繰り返し使っている「真理」という言葉は,異なっているのではないかと思うようになってきた。

 

自然科学の分野における「真理」とは,客観的に存在するものであり,いつでも・どこでも・だれでも,普遍的に真理と認められるもの,誰から見ても「たしかにそれは真理です」と承認できるものであろう。

 

一方,人間としての生き方,倫理,道徳といった価値観に関わる真理も,あるのではないだろうか。人間には,各々の考え方が様々あるのだから,誰もが認める「真理」になるとは,必ずしも限らない「真理」もあると,言えるのではないだろうか。

 

これが「真理」であると信じる人が,その「真理」に従って生きてみせる事,すなわち,真理を実践し体現する事を求められるのが,真理ではないかと考えた。聖書が語る「真理」とは,この事ではないだろうかと思う。

 

ゲーテ曰く,

『真理はたいまつである。しかも巨大なたいまつである。だから私たちはみんな目を細めて

そのそばを通り過ぎようとするのだ。やけどする事を恐れて。』

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫