優しい心を育むカトリック教育

2019/06/04

あいさつ

早朝の小学校の校長室に,毎朝爽やかな笑顔と,私を勇気づけてくれる明るい朝の挨拶を届けてくれる子どもたちがいます。校長室の扉が閉まっている時は,いつもより少々大きな声で挨拶をしてくれます。私が不在の時は,「今日は扉にかかっているクマさんに挨拶したよ」と,休み時間に報告に来てくれます。また幼稚園では,遠くからでも「園長先生!」と,毎朝元気な声で,幼子が私に激励の言葉をかけてくれます。保育中でも窓越しに声をかけてくれるので,私は保育の邪魔にならないように控えめに手を振り,そそくさとその場を去ります。

 

 

今年も,新年度の「あいさつ」原稿をいくつも書いてきましたが,児童や園児の挨拶に勝るものはないのではないかと,心の奥底から感じています。

 

人は,いつから自発的に,挨拶が出来るようになるのでしょう。幼い時,挨拶をする事が恥ずかしかった思い出を,皆さんも持っておられるのではないでしょうか。幼稚園で,また学校で,挨拶する事を繰り返し,繰り返し教えられ,その上親に促され,時には挨拶しない事を叱られながら,いつの日か自然に挨拶が出来るようになっていったのではないでしょうか。やがて思春期を迎え,何に対しても反抗的になって来て反発し,挨拶からしばし遠ざかり,でもやがてまた挨拶の大切さを感じ,自ら挨拶するようになって来たのではないかと思います。

 

このように考えると挨拶は,人の成長の表れとも言えるのではないでしょうか。令和の時代が「礼」「和」と人々がとらえて,挨拶によって平和の第一歩が始まればと期待しています。

 

ミサの時,「主の平和が皆さんと共に」と司祭が挨拶し,これに答えて信徒は「また,司祭と共に」と挨拶を交わします。新しい令和の時代,美しい調和とも言われる時代に,賢明の園児・児童・生徒の挨拶が,世界を平和に包むのではないでしょうか。

 

挨拶ができて当たり前となるまでは,親や先生が手本を示して根気よく根気よく教え諭すものでしょう。 クラブ活動で,先輩から挨拶しろと戒められ,社会人となってからは,あいさつができて当たり前とされる組織の中で働き,幼いころのしつけや,学校でのしつけにありがたさを感じるのではないでしょうか。

 

卒業生が,賢明のあいさつが褒められましたと,同窓会で口にするのは,しつけの大切さを身をもって分かったからでしょう。『止まる・頭を下げる・そして微笑む』この習慣は,失ってはならない賢明のしつけでしょう。

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫