優しい心を育むカトリック教育

2019/11/06

芋ほり

10月下旬に,幼稚園児全員が芋ほりに出かけました。バスでの出発時は晴れていたのですが,農園についたころから急に雲行きが怪しくなり,雨が降り出しました。

 

 

そこで,レインコートに身を包んでの芋ほりとなりました。雨で足元がぬかるむ中での,悪戦苦闘の芋ほり体験でした。スコップで堀ってイモを掘り出すのですが,土が雨の水分を含み,例年より重く,年長児たちも昨年と違った手ごたえに戸惑い,イモを掘り出すのに一苦労していました。そんな中でも年長児たちは,年少児や満三歳のふたば組の園児がイモを掘り出すのに苦闘しているのに気が付くと,自然に手伝っていました。泥にまみれながらも,自分よりも年下の子どもたちに寄り添い,ひとりでに助けてあげている姿は,ほほえましくもあり,またそこには「いたわる」行為が,自ずと営まれている事に感動しました。

 

聖書の中で,イエスが「あわれ」に思われて,病人や罪人を癒されたのと同じ光景を目にする事が出来たと感じた一日でした。イエスが,子どもたちの中におられるという事実,「この子どもの様にならなければ,天の国に入る事が出来ない」とも教えられましたが,この光景の事を言われていたのだと思いました。足下がぬかるみ,雨で土が重くなって自分の芋ほりもはかどらないのに,自分にゆとりがなくても年下のクラスの様子を見て手伝った年長児の姿は,聖書の世界観(あわれみ)を表していたと言っても,過言ではないと思います。

 

自分たちが足首まで土の中に埋まりながらも,年下の園児を助けていた姿は,見守っていた先生たちの心に,秋空のように澄み切った,爽やかな感動をもたらしました。

 

マルコによる福音書 18章1~5

『そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子どもの様にならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子どもの様になる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」』

 

神の国の価値観は,一般社会と異なっているという事ではないでしょうか。神の国では,命令したり従ったり,要領が良かったり悪かったり,運動が出来たり出来なかったり,テストの結果が良かったり悪かったりとかの区別はなく,求められている事は,先入観なしにイエス・キリストの教えを受け入れる事なのでしょう。

ロマーノ・ガルディーニ(18851968

ナチスに地位を奪われるまでベルリン大学の宗教哲学教授

戦後はミュンヘン大学の哲学教授

 

彼は著書「主」(1937年)のなかで、イエスの子ども関わる御言葉から、次の点を読み取ることができると言っています。「一人の子どもを一人の人格として,大切に受け入れるということです。わたしたちは,無意識の内に,自分を良く理解してくれる大人にだけ関心を向けがちです。このような傾向は,社会的に責任を担う指導者や熱心な教育者,母親の心を持つ人々の間にさえもある傾向でしょう」

 

 

学校法人賢明学院 学院長 中原 道夫