優しい心を育むカトリック教育

2018/07/02

ペトロ岐部

この週末に東京四ツ谷へ出張しました。

前にもご紹介した,「カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾」のお手伝いのためです。

今回,私は司会の係に当たっていましたので,何人かの方から質問を受けた大阪北部地震の被害についてもお話ししました。

近畿の養成塾も同じ時間帯なのですが,17時に始まり19時半に終わります。

近畿は毎月1回ですが,東京は2回あります。そして,遠くは長野や福島県郡山からも参加する先生がいます。

 

 

養成塾へ行く前にイグナチオ教会で開かれた,「福者ペトロ岐部と187殉教者 列福10周年記念シンポジウム」に参加しました。

昨年列福された高山右近は名を知られていますが,ペトロ岐部は教会でもほとんど知られていませんでした。

しかし,彼の人生を知ると歴史の教科書には載っていませんが,こんなすごい日本人がいたのかと感嘆します。

彼は「ローマまで歩いた男」と言われています。さらに,その途中に日本人として初めて聖地エルサレムを巡礼した人です。

何故,彼はローマへ向かったのか。それは禁教のため1614年にマカオへ追放され,その後司祭となるためにインドのゴアへ行き,そしてローマまで行ってその夢を叶えたのです。

ペトロ岐部がエルサレムへ辿り着いた時のことを,彼を主人公として『銃と十字架』という小説を書いた遠藤周作はこのように描いています。

「エルサレムにどの路をたどって到着したのかは,私たちは知らないが,夜の砂漠で虚無の闇をくぐりぬけた彼の眼が,ある朝,やっとエルサレムの町を遠くに見た時の感動だけは,はっきり想像できる。(略)

最初の日本人としてこのエルサレムをたずねたペトロ岐部が何を思い,何を考えたか,私は切に知りたい。それについて何ひとつ彼自身は書いていないが,この青年の心にエルサレムの街でイエスの死の意味がのぼらなかった筈は絶対にない。」

 

神父となったペトロ岐部は,迫害に苦しむ日本の教会のために自分を与え尽くす願いを持って,1630年に16年ぶりの帰国を果たします。

長崎からローマまでが6年,ローマから日本へ帰るまでに8年の歳月がかかっています。

日本に潜伏したペトロ岐部は,9年間キリシタンのために働きました。

しかし,1639年水沢で逮捕され江戸へ護送され,そこで背教者となった沢野忠庵(フェレイラ神父)の尋問を受けました。

最後は,キリシタンの取り調べに辣腕をふるった井上筑後守の命によって,穴吊りの刑で殉教します。

このような記録が残っています。

「キベヘイトロコロび申さず候 ツルし殺され候 同宿ども勧め候ゆえキベを殺し候」