2021/04/08
昨日,中学高等学校の入学式が行われました。今年は保護者の皆様には参列していただきましたが,来賓はお招きせず時間も短縮しました。私の式辞は次の通りです。
39名の中学新入生,143名の高校新入生の皆さん,ご入学おめでとうございます。
保護者の皆さまもお子様のご入学,おめでとうございます。賢明学院の制服に身を包まれ,新しいステージへ一歩踏み出されたお子様は輝いて見えるのではないでしょうか。
さて,新入生の皆さん,賢明学院は約2000年前,ユダヤに生きたイエス・キリストの生き方に倣いたいと考えるカトリック学校のひとつです。大阪では7校,全国でも中学は97校,高校は113校しかありません。また,賢明学院は約2000年前フランスに生き,まさにイエス・キリストに倣いたいと生涯を教育にささげたマリー-・リヴィエの精神を根本におく学校です。エントランスに並んだ国旗は世界の姉妹校がある国々ですが,日本には姫路の賢明女子学院とこの堺の賢明学院2校だけです。
4日の日曜日に教会はイースター復活祭を祝いました。クリスマスはよく知られていますが,イースターは知らない人の方が多いでしょう。キリスト教という宗教は,十字架上のみじめな死で生涯を終えたナザレのイエスと言う人物が3日目に復活したと信じています。そんなことは作り話だと思う人が多いかもしれません。では,「復活」とは何が起こったのでしょう。死んでいた人が息を吹き返して生き返ったと言うのではありません。もしそうならば,その人はいつか必ず死にます。
聖書にはイエスがこのように復活したとは書いていません。復活のイエスに弟子たちが出会った話が書いています。死んだはずのイエスが確かに生きておられると言う,神秘的な体験を弟子たちがしたと書いてあるのです。それは本来,言葉では表現できない出来事だったかもしれません。でも,何とか新しい命を生きておられるイエス,自分たちに想い出としてではなく共にいてくださると実感できるイエスのことを必死になって伝えようとしているのです。
これ以上詳しい話は止めて,1点だけお話します。イエスの十字架の死は弟子たちにとって,「絶望」でした。3年間,家族も仕事も故郷も捨てイエスに従ったのは無意味だったと弟子たちは思ったことでしょう。「復活」はまさに「希望」のシンボルです。イエスの復活を体験して弟子たちは変わりました。キリスト教は愛の宗教と言われていますが,希望の宗教とも言えます。皆さんも学校生活の中で様々な困難にぶつかるでしょう。もうだめだと思うこともあるかもしれません。しかし,決してあきらめないでほしい。絶望しないでほしいです。「復活」が「希望」のシンボルであるとともに,「希望」を持ち続ける先に「復活」もあるのです。この春休み,競泳の池江璃花子選手の姿を見て,そうだなと納得してくれる人もいるでしょう。
せっかく賢明学院と言う希望の宗教であるキリスト教カトリックの精神で教育されている学校に入ったのですから,イエス・キリストが何を教え,何を行い,どういう方か知ってほしいと願っています。その一つとして,復活のイエスがそうであるようにイエスがいつも寄り添ってくださる方であることを「あしあと」という詩で紹介します。
あしあと
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主イエスとともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
皆さんの学校生活が愛と希望に溢れ,充実した毎日となることを祈り願って,私の式辞とします。