優しい心を育むカトリック教育

2019/02/26

卒業講話

今日から28日の卒業証書授与式まで,高校3年生は連日予定が詰まっています。

今日は私が「卒業講話」として1時間話しました。

授業を持っていないので私が何の教科を教えるのか知らない生徒もいると思って,最初に宗教の先生だと知らせました。

レジュメを載せておきます。

 

1.カトリック学校で学ぶとは

 

カトリック学校とは――全国でカトリック高校は113

一人ひとりを大切にする学校

一人ひとりの居場所がある学校

友だちが寄り添う,先生が寄り添う,神が寄り添うことを実感できる学校

 

人生は選択の連続……小さな選択から大きな選択まで

選択の根底にはその人の価値観,人生観,人間観がある

 

人生で何が大切なのか,自分がどんな人間になりたいのか

 

カトリック学校にはいっぱいヒントがある。

 

公立学校や他の私学との違いは → その教育の源泉は何なのか

                 建物は同じように見えても土台が違う

                        ↓

              イエス・キリストという泉から湧き出てくるもの

              イエス・キリストの行いと教え

              イエス・キリストという明確なお手本

                        ↓

              「生きる」ことの見本を私たちに教えてくれる

              でも,ちょっと変わっている。世間の常識とは違う?

              だからこそ,イエスは命を賭けて伝えようとした

 

あなたはイエスと出会いましたか

 

イエス――キリスト(救い主),神の子,神

     歴史上,人間の尊厳を最も深く理解し実感し,それに基づいて行動した人 ⇒ 「愛」

 

2.キリスト教的(聖書的)人間観

 

創世記1.27「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」

人間だけが神に似せて造られた――他の動物とは別格の存在「魂を持つ人間」

2.7「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

               ↓

  人間だけが神から命の息を吹き入れられた――「比べられない尊厳を持つ人間」

  神の吹き入れた息によって生きる者となった――いのちは神のもの,いつか神に返す

                        いのちは神から預かっている宝物

1.31「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ,それは極めて良かった

                                   ↓

                             「神の最高傑作としての人間」

3.イエスの選択

 

レプラ(重い皮膚病)に対するイエスのいやし(ルカ5:12-13

「イエスがある町におられたとき,そこに,全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し,『主よ,御心ならば,わたしを清くすることがおできになります』と願った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ,『よろしい。清くなれ』と言われると,たちまち重い皮膚病は去った。」

 

イエスには様々な選択があった――➀逃げる ②無視する ③言葉だけでいやす

                そのどれも選択しなかった

イエスの選択――「手を差し伸べてその人に触れ」

 

この選択の根底にあるもの(イエスの行動原理)

1)感情・感覚を超える ―― 理性・意志 ⇒ 愛

2)自らの不利を厭わない……同じ痛みを負う

イエスはレプラの人と同じ地点に立って痛みを共有し,一歩踏み出して「手を差し伸べてその人に触れ」,自らも汚れた者となって律法の不条理を背負い,そしていやした

「かわいそう」と「痛みを知る」の違い

「腸がちぎれる思いにかられ」

3)「小さい者」「小さくされた者」(社会的に弱い立場の人々)との連帯 ⇒ 「弱い側」につく

4)独りぼっちの人の友に ⇒ いやしの奇跡 = 人間性の回復

レプラの人を貫く驚き,戸惑い,信じられぬ思い,そして後から大きな波となって押し寄せた喜び。手足の醜い変形がこの人にとって一番の苦しみではなかった。汚れた者として救いのない孤独こそが病の苦しみだった。それがまさにイエスによっていやされる。

このレプラの人は社会の中で完全に無視された存在であり,「人間」として扱われていなかった。おそらく,この人物は今の苦しみから解放される死を願っていたであろう。人間らしい生き方など望むこともできなかった。ところが,イエスはこの人の「人間性」を回復した。もしかしてレプラの外見はそのままだったかもしれない。しかし,「触れる」ことによって自分を人間として接してくれたイエスの存在が,まさにレプラの人が「人間」を取り戻す力となった。

5)一人ひとりを大切に ⇒ 人間の尊厳に対する深い理解

私たちにはその理解が足らない。もしイエスと同じように理解できたならイエスと同じように行動できる

 

4.心に留めてほしいこと

 

イエス・キリストが願ったこと(ルカ5.31-32

「医者を入り用としているのは,達者なお人ではござらぬ。病人でござる。やつがれが志すところは,シッカリと掟を守る御立派なお歴々をお招き申すことではござらぬ。人に嘲られ軽んじられている罰当り者たちを呼んで,その心をパアッと明るく切り換えさせ,楽しく活き活きと幸せに暮すようにさせてやることでござる。」          (山浦玄嗣訳『ガリラヤのイェシュー』イー・ピックス出版,2011年)

 

イエス・キリストに出会った人たち――「その心をパアッと明るく切り換えさせ,楽しく活き活きと幸せに」

                           ↓

                  一人ひとりが心の底からの安らぎを感じた