優しい心を育むカトリック教育

2017/06/30

聖書講座

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昨日,月に1回の保護者対象聖書講座がありました。

私が賢明学院に来た年から始めていますから,今年で6年目です。

内容は主に「新約聖書講座」を開講していましたが,今年から3年周期で「旧約聖書講座」「新約聖書講座」「キリシタンの信仰」を1年ごとに開く予定でいます。

 

昨日は旧約聖書,創世記の1~3章を取り上げました。

ご存知の方も多いでしょうが,この箇所は世界が神によって創造される物語が書かれています。

この創造物語を読むポイントは,物語を通して語られている信仰のメッセージは何かを読み取ることです。

何も聖書は天動説を科学の真理として主張しているわけでも,アダムとエバ(イヴ)が最初の人間だと主張しているわけでもありません。

 

アダムとエバが禁断の木の実(善悪を知る木の実)を食べたことはよく知られていますが,私が注目したいのはその後の神とアダム・エバのやり取りです。

 

その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創世記3章8-13節)

 

私は神が二人を叱責しているというより,自分たちの過ちを認めて素直に謝ってほしいという神の想いを強く感じます。

つまり,こういう展開です。

神  「どこにいるのか」…… 謝れば赦してやろう

      ↓

アダム「わたしは裸ですから」…… ごまかそうとする

      ↓

神  「木から食べたのか」…… 謝ってほしい

      ↓

アダム「女が木から取って与えたので」…… 責任転嫁 

      ↓

神  「何ということをしたのか」…… エバに望みを託す

      ↓

エバ 「蛇がだましたので」…… 責任のなすりあい

 

特にアダムがエバ自身に責任転嫁するだけではなく,「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女」と神に対して責任転嫁しているところは人間の愚かさがよく表れています。

「言い訳」や「責任転嫁」が横行している今の社会で,自分の姿を振り返りたいです。