優しい心を育むカトリック教育

2021/04/10

通信制課程入学式

今日は通信制課程の入学式が行われました。中高の入学式と同じく晴天に恵まれました。

今年は新入生が54名と過去最高でしたので,初めてリヴィエホールアリーナで挙行しました。

私の式辞は次の通りです。

 

54名の新入生の皆さん,ご入学おめでとうございます。

保護者の皆さまもお子様のご入学,おめでとうございます。賢明学院の制服に身を包まれ,新しいステージへ一歩踏み出されたお子様は輝いて見えるのではないでしょうか。

さて,新入生の皆さん,皆さんは今日の賢明学院の入学式を迎えるまでに,いろんな思いを抱えながら生活してきたかもしれません。しかし,ここが皆さんの居場所のある学校,安心できる学校になることを願っています。自分はそういう学校に入学したのだという意識を持ってほしいと思っています。

賢明学院の通信制は5年前に産声を上げ,新入生の皆さんを加えて130名足らずの小さな学校です。だからこそお互いのことがよく分かり,学年を超えて仲良くなっていけます。最初は心を開くのも難しいかもしれません。人を警戒する気持ちもあるかもしれません。しかし,この優しさと温かさに満ちた学校で,生き生きと高校生活を送ってください。私は生徒たちの表情が明るく変化していくのを見ると,通信制を始めて本当によかったと感じます。

賢明学院は約2000年前,ユダヤに生きたイエス・キリストの生き方に倣いたいと考えるカトリック学校のひとつです。大阪では7校,全国でも高校は113校,通信制は3校しかありません。また,賢明学院は約200年前フランスに生き,まさにイエス・キリストに倣いたいと生涯を教育にささげたマリー-・リヴィエの精神を根本におく学校です。エントランスに並んだ国旗は世界の姉妹校がある国々ですが,日本には姫路の賢明女子学院とこの堺の賢明学院2校だけです。

この春休みの大きな話題は今日まで開催されている「日本選手権水泳競技大会」でしょう。オリンピックの代表選考を兼ねた大会で一発勝負の明暗がはっきりしていると感じています。その中で池江璃花子選手の奇跡的な復活が一番の話題になっています。女子100mバタフライで優勝した池江選手はメドレーリレーの代表に大きく前進したと報じられました。また,女子100m自由形でも優勝して2種目目の内定と言われています。涙の記者会見で東京五輪に出られると思っていなかったが,努力は必ず報われると語りました。池江選手が白血病にかかったのは2年前,それから苦しい闘病生活が続き,病気を克服してから水泳に戻り,想像を絶する努力と家族の大きな支えがあってこの奇跡的な復活を成し遂げました。

でも,考えてみるとこの場にいる皆さんも「復活」したのです。学校に行けなかった苦しい時,高校に進学することを諦めそうになった人もいるかもしれません。こうして入学式を迎えていることを奇跡だと感じている人もいるかもしれません。だけど,皆さんは復活したのです。池江選手と同じようにご家族の大きな支えがあって新しいスタートに立ったのです。

先週の日曜日,教会はイースター復活祭を祝いました。キリスト教という宗教は,十字架上のみじめな死で生涯を終えたナザレのイエスと言う人物が3日目に復活したと信じています。そんなことは作り話だと思う人が多いかもしれません。では,「復活」とは何が起こったのでしょう。死んでいた人が息を吹き返して生き返ったと言うのではありません。もしそうならば,その人はいつか必ず死にます。

聖書にはイエスがこのように復活したとは書いていません。復活のイエスに弟子たちが出会った話が書いています。死んだはずのイエスが確かに生きておられると言う,神秘的な体験を弟子たちがしたと書いてあるのです。それは本来,言葉では表現できない出来事だったかもしれません。でも,何とか新しい命を生きておられるイエス,自分たちに想い出としてではなく共にいてくださると実感できるイエスのことを必死になって伝えようとしているのです。

イエスの十字架の死は弟子たちにとって,「絶望」でした。3年間,家族も仕事も故郷も捨てイエスに従ったのは無意味だったと弟子たちは思ったことでしょう。「復活」はまさに「希望」のシンボルです。イエスの復活を体験して弟子たちは変わりました。皆さんもこれからの学校生活の中で様々な困難にぶつかるでしょう。もうだめだと思うこともあるかもしれません。しかし,決してあきらめないでほしい。絶望しないでほしいです。「復活」が「希望」のシンボルであるとともに,「希望」を持ち続ける先に「復活」もあるのです。さきほどお話した池江選手はまさにそうでした。

最後に,復活のイエスがそうであるように今もイエスが私たちにいつも寄り添ってくださる方であることを「あしあと」という詩で紹介します。

 

あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主イエスとともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 

皆さんの学校生活が愛と希望に溢れ,充実した毎日となることを祈り願って,私の式辞とします。