優しい心を育むカトリック教育

2021/05/22

BULLETIN 5月号 「聖母月」

カトリック教会は花々が美しく咲きみだれる5月を聖母月として、聖母マリアの生き方にならう月としています。今年も残念なことに、先週14日に予定されていた「聖母月の集い」がコロナ禍のためにできませんでした。実は同じミッション・スクールでも、プロテスタント校ではマリアの行事はありません。2年続けて中止となったので、カトリック校で最も美しいこの宗教行事を知っているのは3年生だけです。生徒たちが持ってきてくれた一輪一輪の花に囲まれたマリア像は、忘れえない美しさです。来年こそはと心から願います。

 

2年前の「聖母月の祈り」のことはよく覚えています。中学2年生が台湾研修旅行で交流している光仁高級中学の皆さんがちょうど来日されており、生徒たちと共に百合の花を献花してくださいました。毎年、前理事長のシスター中西先生が献花の後にマリアのお話をしてくださいました。18日、私は放送朝礼でルカ福音書1章26-38節に書かれている「受胎告知」(お告げ)を取り上げて生徒たちに話をしました。

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという  人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。()」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。()」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

私はこの受胎告知の場面を読むたびに想うことがあります。マリアは当時のユダヤ社会の常識から行けば、この時13、4歳だったと言われています。今は私たちもこのナザレの少女が聖母になったことを知っています。しかし、2000年前ユダヤの田舎町で起こった、この不思議な出来事を誰が理解できたでしょうか。いいなずけの決まっている女性が身ごもることは、石打ちという死刑に合う危険すらあったのです。にもかかわらず「はい」と答えたこの少女の勇気、全てを神にゆだねた信仰、そして、いいなずけヨセフに対する深い信頼。それを想うと心が震えます。

それとマリアに「お告げ」があったように、私たち一人ひとりにも「お告げ」つまり神からの問いかけ、語りかけがあります。マリアが「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と答えたように、私たちも神の望みに応えるという視点を持つことも大切です。きっとそれは、賢明学院というキリスト教の学校に来たからこそ知る価値観でしょう。今、この場面で私がどう行動すれば神が望まれることを実行することになるのか、難しい質問かもしれませんが考えてみたいです。

聖書は聖母マリアについて多くを語っていません。しかし、福音書に書かれているいくつかの場面から、先に挙げた点だけでなく、謙虚さ、聡明さ、心のこまやかさなどが伝わってきます。今月は聖母マリアにならう生き方、つまり神の望みに応える生き方を静かに思い巡らしたいと思います。そう言えば、「思い巡らす」(ルカ2:19)こともマリアにならうことの一つです。